Panzerregiment 11, Panzerabteilung 65 und Panzerersatz und Ausbildungsabteilung 11 Band 2: Als Feuerwehr an den Brennpunkten der Ostfront - Oktober 1941 bis Mai 1944 第11装甲連隊、第65装甲大隊及び第11装甲予備・訓練大隊 第2巻 1941年10月〜1944年5月 東部戦線の火消し役として 売り切れ
第11装甲連隊、第65装甲大隊、第11装甲予備及び訓練大隊の完璧な部隊史です。 この本の初版は1987年に著者が自費出版した本で、当時は約600ページでしたが、今回の改訂完全版は 3冊で約1250ページ!で、新たに発見された資料や写真が追加されています。 著者は、あの名作Meuse First and Then Antwerp(第150装甲旅団史)の著者でもあります。
第11装甲連隊は1937年10月12日パーダーボルンの軍事訓練所の街センネラガーでWilhelm Philipps中佐(後に中将・騎士十字)をトップに設立され、 第 65 装甲大隊は同じ場所で同日Kurt Thomas少佐(第999アフリカ師団戦死後中将)が司令官でした。 開戦当初は第1軽師団に配属され、ズデーテン侵攻に参加、ポーランド戦後の1939年10月18日第6装甲師団配下に その後、フランス侵攻で戦ったあと本国に戻り、北方軍集団傘下で1941年6月のバルバロッサ作戦に参加、10月には中央軍集団に移動 レーニングラード戦などで戦い、モスクワ直前で壊滅状態となり1942年5月にフランスに帰還、6月3日には 別部隊だった第65装甲大隊が第11装甲連隊の第4.と第8中隊に編入されました。 その後11月にスターリングラード包囲救出作戦、ハリコフ戦と激戦地で戦い抜いたが、バグラチオン作戦で中央軍集団が破壊された後、ポーランド北部と東プロイセンの防衛、 ブダペスト包囲戦周辺の戦いに参加した後、オーストリアに後退し、ウィーン防衛に参加しました。 1945年5月にアメリカ第3軍に降伏したが、ソ連軍に引き渡されました。 配備戦車は II号戦車・35(t)戦車・IV号戦車・35(t)指揮戦車・III号戦車・パンター戦車・IV号対空砲戦車・III号火炎放射戦車等々です。 第11装甲連隊の連隊長は ヴァルター・フォン・ヒューナースドルフ大佐(柏葉 後に中将) ヘルマン・フォン・オッペルン=ブロニコフスキー大佐(剣付柏葉 後に少将) フランツ・ベーケ大佐(剣付柏葉 後に少将) など英雄揃いです。 この第2巻は 1941年の対ロシア戦争におけるレニングラード作戦の後、第6装甲師団とそれに付随する第11装甲連隊はドイツ軍全体の攻撃の中心部に再配置された。 タイフーン作戦への連隊の配備は当初、攻撃に多大な成功をもたらしたが、1941年12月10日、モスクワ手前で停止した。グシャツク、ヴャズマ、ヤルツェボの間で、第 11 装甲連隊の 兵士たちは歩兵の冬季陣地に配置されましたが、この任務は 1942 年 5 月に部隊が分離され、リフレッシュのためにフランスに移送されて初めて終了しました。 1942 年 11 月中旬までに、フランスの第 11 装甲連隊は大規模に再編成され、戦車の装備が再されました。 スターリングラードの第6軍の解放のために戦うために配備された第6装甲師団と第11装甲連隊は、コテリニコボ近くのカルムイク草原からスターリングラードに向けて攻撃するため、1942年11月中旬から電撃輸送でロシアに移動した。第11装甲連隊の部隊はなんとか包囲網から48キロメートル以内に到達した。 作戦が中止された後、連隊は1943年1月中旬にドネツ地区にいることを発見し、その後ハリコフ地域に配備された。 戦車の損失が大きかったため、第 11 装甲連隊の第 1 師団は、リフレッシュのため 1943 年 4 月中旬から本国に輸送されました。 1943年7月のクルスク突出部の戦いであるシタデル作戦では、連隊の残りの部分が再び攻撃の成功を収めた後、ドニエプル川とヤスロ川の間の継続的な撤退戦に巻き込まれ、1944年5月末に到達した。 残りの部隊は物質的に疲弊し、人員も大幅に減少しており、その後ベルゲン訓練場に帰還し、リフレッシュと再装備を行った。
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