Panzerregiment 11, Panzerabteilung 65 und Panzerersatz und Ausbildungsabteilung 11 Band 1: Von Blitzsieg zu Blitzsieg - Oktober 1937 bis September 1941 第11装甲連隊、第65装甲大隊及び第11装甲予備・訓練大隊 第1巻 1937年10月〜1941年9月 創隊から電撃戦・レーニングラード
第11装甲連隊、第65装甲大隊、第11装甲予備及び訓練大隊の完璧な部隊史です。 この本の初版は1987年に著者が自費出版した本で、当時は約600ページでしたが、今回の改訂完全版は 3冊で約1250ページ!で、新たに発見された資料や写真が追加されています。 著者は、あの名作Meuse First and Then Antwerp(第150装甲旅団史)の著者でもあります。 著者の本
第11装甲連隊は1937年10月12日パーダーボルンの軍事訓練所の街センネラガーでWilhelm Philipps中佐(後に中将・騎士十字)をトップに設立され、 第 65 装甲大隊は同じ場所で同日Kurt Thomas少佐(第999アフリカ師団戦死後中将)が司令官でした。 開戦当初は第1軽師団に配属され、ズデーテン侵攻に参加、ポーランド戦後の1939年10月18日第6装甲師団配下に その後、フランス侵攻で戦ったあと本国に戻り、北方軍集団傘下で1941年6月のバルバロッサ作戦に参加、10月には中央軍集団に移動 レーニングラード戦などで戦い、モスクワ直前で壊滅状態となり1942年5月にフランスに帰還、6月3日には 別部隊だった第65装甲大隊が第11装甲連隊の第4.と第8中隊に編入されました。 その後11月にスターリングラード包囲救出作戦、ハリコフ戦と激戦地で戦い抜いたが、バグラチオン作戦で中央軍集団が破壊された後、ポーランド北部と東プロイセンの防衛、 ブダペスト包囲戦周辺の戦いに参加した後、オーストリアに後退し、ウィーン防衛に参加しました。 1945年5月にアメリカ第3軍に降伏したが、ソ連軍に引き渡されました。 配備戦車は II号戦車・35(t)戦車・IV号戦車・35(t)指揮戦車・III号戦車・パンター戦車・IV号対空砲戦車・III号火炎放射戦車等々です。 第11装甲連隊の連隊長は ヴァルター・フォン・ヒューナースドルフ大佐(柏葉 後に中将) ヘルマン・フォン・オッペルン=ブロニコフスキー大佐(剣付柏葉 後に少将) フランツ・ベーケ大佐(剣付柏葉 後に少将) など英雄揃いです。 この第1巻は 創隊からロシア侵攻初期までが調査されています。 創隊後の最初の出動は1938年10月4日から 18日までのチェコスロバキア侵攻作戦でしたが戦闘は回避しました。 ポーランド戦役の開始とともに、第11装甲連隊と第65装甲師団の軍事利用も始まり、特にワルシャワ広域地域では大きな成功を収めたが、同時に深刻な損失も出し 本拠地に戻り、戦車の補充と修理を行った後、1940年1月にライン川の西へ移動。 フランス侵攻は、この 2 つの部隊が第 6 装甲師団の一部としてモンテルメ近くのムーズ川を越えて展開する形で始まりました。 攻撃の第 1 段階はフランス北部を通ってカレーに向かい、大西洋岸に向かいました。向きを変えた後、モンテルメからの 2 回目の攻撃はライン マルヌ運河とソーヌ川を越えて アルザスに向けて行われました。エピナル要塞の占領により、第11装甲連隊と第65装甲師団によるフランスでの戦闘は終結した。 1941年9月、軍隊は対ロシア戦争に備えて西プロイセンに移動し、最初の展開はロシエニとドゥビサ越えで行われた。 その後、ドゥナ川、オストロフ川、レーニン線とスターリン線を越え、ルガ橋頭堡で数週間の困難な期間を耐えました。 1941年8 月9日から 9 月 18 日までのレニングラードの戦いが始まり2巻目に続きます。
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